蓮台寺について

由緒・沿革

住古から不動堂村(上野町内)に地蔵仏が祠られていたが、永禄(1558~20)の頃の兵火で付近の寺と共に堂宇は焼失した。寛永2年(1625)再建立され、地蔵菩薩を本尊として再興してから、同10年(1633)、近くの随応院中興の七世源蓮社然誉上人(地元の山内重但の次男)を開山に招じて浄土宗となり、地蔵院法然寺と寺号公称した。然誉上人は、弟子の超誉に後をゆずり、犬山の専念寺に入寺して慶安元年(1648)に没している。この因縁から当村の山内家一門の墓は蓮台寺に設けられている。

更にその後、延享三年聴誉還諦の代(1746)には法然院蓮台寺と現寺名に改号した。寺地は、上野山の郷中となる地名で集落西端の高台にあり、西方は矢作川の河原を望む眺望が開け、洪水で現地へ移った状況がよくわかる。

堂は南面して境内西北寄りに墓地を構えた小型の規模で伽藍が組まれる。建物は本堂の他に山門、鐘楼庫裡、書院等がある。

  • 地蔵菩薩像
  • 本尊 阿弥陀如来像
  • 法然上人像
  • 善導大師像

境内案内

本堂

本堂

寄棟造桟瓦葺一間向拝付、外陣の見付六間の小型の堂で南面しており、東側の庫裡とつなぎに見付一間半の玄関を設ける。建立年月は寺記、棟札にはないが、延享3年(1746)4月に寺号を改めて蓮台寺と変えており、当時の住職の位牌は当寺中興開蓮社聴誉還諦大徳とあることからみても本堂を再建して寺観を整えて改号してものと思える。
口伝には高月院の古堂であるとの説もあるが、参考説程度としたい。現堂の虹梁絵様や木鼻の彫刻から見ても十八世紀中期と年代的に一致する。

また、その年代の住職で他には中興号を受けた人はいないので延享時の建立とみられる。堂の外廻りの構造は土壇を盛り玉石礎石。向拝は一間で角柱、石礎盤、柱間に虹梁で端木鼻、柱上連三斗、中備蟇股、厚板の手陜の横に若葉を彫る。海老虹梁はない。起りの強い一軒の打ち越しは疎垂木を配する。堂の主屋は角柱で前側面に切目縁の濡縁を付す。前面はすべて柱間解放で、壁はなくガラス障子引違い。中央柱間の両端外側はもとは両引きで型の通りの扱いとなっていた。左右端の柱間は二本溝で、もとは雨戸が入っていた。西側面は柱外に雨戸一本引、内側に明障子、小壁に飾貫一本を見せて漆喰塗、一軒疎垂を配する。

  • 蓮台寺 7月蓮の花
  • 鐘楼 竜の瓦
  • 庫裡

堂内は手前に外陣(大間)一室を構え、内陣奥の来迎柱(円柱)を除いてすべて角柱、大間周囲敷鴨居内法長押中心軸線の柱間は大虹梁(実長二間張)を架す。内陣境の虹梁下は開放、虹梁中央束立て、襖欄間に紙張り彩画(波に竜)で裏板に墨書があり、『當寺十一世実誉真海代画師寺部賀口弥平 時天保九戍年七月仏観喜日出来』と記されている。

柱上に斗きょうはない。天井は棹縁とする。内陣は奥行実長二間の十畳大で現在は脇の間と一体化して畳敷であるがもとは板張り。この時代の浄土宗には珍しく床高は外陣と同高で内陣まわりに結界框もない。

両側面に内法長押を通し、手前実長一間半までは一張りにして敷鴨居に二本溝があるので脇の間を内陣と区画した方丈型であった。後方一間分(脇仏環境)は土壁、小壁はすべて漆喰塗で内陣柱上内外まわりに斗きょうはなく棹縁天井。背面両端に半間巾の位牌壇と仏壇がつき腰框壇前に縦板、上部に虹梁、小壁は飛天奏楽の彩画を施す。来迎柱は円柱で頭貫端木鼻、台輪、柱上に出組斗きょうで天井棹縁を受ける。

柱頭から斗きょう上の棹縁までは極彩色で飾る。両脇の間は三畳敷の最少規模の広さで外陣境を敷鴨居、内法長押、漆喰小壁、背面は腰框を付した脇仏壇を設ける。外側面は襖引違いで隣室に続く。

本尊

寺部の古道

善光寺街道と柿野街道

善光寺街道の要所には、善光寺のご本尊である阿弥陀三尊像(右側に観音菩薩、左側に勢至菩薩が伴った一光三尊佐弥陀如来像)が祀られている。

連台寺前の石仏は、この阿弥陀三尊像であり、この地が、善光寺街道の要所であることが知られている。
また、連台寺西側の南北の道は、岡崎から美濃の柿野へ通じる柿野街道といわれた。ここから北へ、八幡宮と守綱寺の西側を抜け、矢作川を渡し船で渡り、荒井の兵主神社に上がり、花本、御船、藤岡へ通じて、和紙や陶器の交易路となった。

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浄土宗 法然山 蓮台寺

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